2008年6月18日水曜日

文章を書くということ

お初。ということでメタ的に、文章について書いてみます。





 「言葉は神とともにあり、言葉は神であった」(『漢字』白川静)

僕らは言葉を紡ぐ。紡いで書いて文章を織る。織って僕らはその文章を、どうしようと言うのだろうか。そもそもなぜ、僕らは文章を書いているのだろうか。

―そんなの知らないよ!

それでも僕らは言葉を紡ぐ。紡いで文章を織り続ける…。
 それにしても人間という生き物は、何かを表現しなければ気がすまない生き物なのかもしれない。そしてそのための媒体は幾らでも用意されている。活字。写真。絵画。音楽。或いはファッション。或いは表情・身振り。唯そこに居るだけで、僕らは何かを表現している。
 では、なぜ活字か。僕は活字が全ての表現を司るものであると思っている。すべての表現は活字によって掬い上げられるからである。

個人的な話をしよう。物心ついて、活字を読むようになって、僕はそこに自分の生きる現実とは別の世界があることを知った。そうして僕は自然にその中に嵌り込んでいった。貪るように読んで、僕は様々な世界に生きることができるようになった。
それから暫く、僕は自分たちが生きる現実(そこには家があり家族がいて、学校があり友達がいる)と本の中の現実(隣人であったドンキホーテは風車と闘い、先生は「僕」と奥さんを残して自殺する)を行き来する生活を続けることになる。
そのような2重、時には3重生活を続けた後、僕は唐突に活字から離れることになる。理由は単純。現実世界の方が面白く見えたからである。僕の想像力の弱さを別にしても、僕にとって世界には本の中よりもいろんな人がいて、いろんなものがあり、いろんなことが起こる、ように思えた。
そしてそれは半分正解で、半分不正解だった。実際、世界にはいろんな人がいて、いろんなものがあり、いろんなことが起こる。僕が気づいてなかったのは、そのようにある世界は、言葉によって表現されることによってこそ面白いものになるということであった。
活字はさまざまなものを拾い上げ世界の中に位置づける。出来事や経験をしっくりくる形で表現した言葉、「真の名」は、世界をより豊饒にする。そう気づいて、僕は再び活字の世界に戻ることになる。読み手ではなく、今度は書き手として。

文章を書くということは、世界に切れ目を入れることである。この「書く」という行為によって、僕たちは今までに見ていなかったものを見ることになるし、考えたことがなかったことを考えることになる。
文章を書くということはそして、新しい解釈をすることにもなる。今まで当たり前だと思っていたところに切れ目が入って、僕らは対象が変質していくのを感じる。
文章を書くことで、僕らは様々なことを知る。その様々なことの中に「自分自身」という得体の知れないものも入っていることがあって、これは望外の報酬である。
文章を書くことは、だから、言葉という透明なフィルターをもって世界を写し取ることでは、断じてない。僕らが何かを見、何かを感じて、文章を書くとき、僕らは存外いろいろなことをやっているのである。

世界に何かを作り出すことは苦しい。というのも僕らは自分と作ったものとの乖離を目にしてしまうから。
しかし、それ以上に世界に何かを作り出すことは愉しい。というのも何かを作り出すことで、僕らは世界を変えることができるし、そうしてそれから自分を変えることができるから。
その愉しさ故にだろうか、僕らは自分が産み出した作品を愛してしまうことさえある。
そのようにして産み出したものを誰かと共有すること。共有し、それについて話すこと。こういうことは世界にある最上の至福のうちの1つだと思う。
そう思って、僕らは言葉を紡ぎ、文章を織り続ける。
世界の本当の名を知るために。


以上。



次のお題は「万葉集」。ちょっとでかすぎ?まあイイジャナーイ。
白シャツ氏どうぞ~

5 件のコメント:

akira さんのコメント...

経験や出来事のすべての真の名がわかるとは思わないけど、その少しでもわかれば僕らはどれだけ自由になることだろう、と思う。
嗚呼、自由になりたい。

suganuma さんのコメント...

個人的な文章に見えて、一般性のある文章だと思った。こういう文章をさらっと書けるのって、羨ましく思う。
でも抽象度が高くて、ふと文章が繋がらなくなるような印象を受ける箇所も。というのも、ぼくは最近、具体に対して目を向ける傾向が強いからかも知れない。
文章によって、世界の本当の名前を知る、ということは、「我々の世界」を言葉によって描きだす行為であり、その描かれたものは「我々の世界」であったはずが「自分の世界」となってしまっている。白川静の言葉と対比して考えると、言葉は神のものから人間のものへと変わった、もしくはそう誤解したわけである。(冒頭「言葉は神とともにあり~」は白川静の文章ではなく、聖書・ヨハネによる福音書の文章です。白川さんはそれに付け足して「漢字は神とともにあり~」と繋げた。揚げ足を取るようで申し訳ないが、一応指摘orz)
でも、世界っていうのは、ある側面から見れば「自己」であり、「他者」であるものですよね。読むものは、「他者」から「自己」に入り込んでくるが、書くものは「自己」から「他者」へと変化する。けど、それは単なる「他者」ではなく、臍の緒のようなものを引きずりながら「他者」として成立してゆく。
ほかの人間(「自己」)が、「他者」を通して、共有するものは、喜びにもなるし悲しみにもなる、悲劇にも喜劇にもなる。でも、共有するってこと自体が大きな喜びなんでしょうね。
オザケンの「喜びを他のだれかとわかりあう~」って言葉がなお意味をもって聞こえてきます。

akira さんのコメント...

>>白シャツ氏

米あざーす。
具体に対して目を向けるのは大事なこと
ですね。ぼくが書いたのは総論的。各論的な文章もかけるようになったらいいなー

echo さんのコメント...

遅くなりました。すみません。
物事ののまわりをたゆたうような文章を書けることは僕も羨ましく思います。
「物事のすべて」という意味と、「内的言語活動によって構成されるもの」という意味が2重化されている「世界」というものに、文章が切れ目を入れるという表現はしっくりきます。世界と世界の関係をもう一度構成しなおし、他者の世界と世界の関係も構成しなおす。自分と他者の世界は繋がらないかもしれないけれど、この点に関しては同一であると。
それが共有ということなのかなと思いました。
オザケンの「喜びを・・・」は最近ますます重要になってきているような気がします。懐深いですよね。

秋田歯 さんのコメント...

運動場に白線をひかれた気持ちよさを感じる。浮く感じのスタートライン。文を書く、自己や世界が変わる、他人と共有するという基本行為を日々、一日単位の円環で繰り返している身としては、制約のないところで物事をかけること。楽しみにしとります。

オザケンなんか、くそくらいやけど。